なぜ「大学では教えられない歴史講義」なのか その1

もはや日本の大学は大学ではない

インターネットの普及により、情報化社会と言われるようになった。では、人間はそれほど賢くなったのであろうか。例えば、紙とインターネットとどちらが人類にとって大きな発明であろうか。インターネットを検索すれば、どこかに答えがあるのであろうか。その答えが正しいと、どうすれば判断できるのであろうか。

俗に「情報化社会」と言われるときの「情報」とはinformationのことであり、決してintelligenceではない。正確には、informationとは「生情報」や「情報資料」であり、「知性」「知見」の意味も含むintelligenceこそが「情報」のである。

つまり、世の中にinformationは溢れているが、本物のintelligenceがどこにあるのかがわからないのである。

では、真の「情報」である「知性」「知見」はどこで学ぶのか。

本来は大学である。しかし、残念ながら我が日本国においてはどうやらそうではないらしい。教員は雑用に追われ、学生は三年生から就職活動に励み、落ち着いて学問に取り組む暇がない。授業も資格試験向けの講座が主流であり、高校や予備校と本質的な差異は無くなっている。

これを実学と言えば聞こえは良い。しかし、時流に迎合した大学ほど、いざというときに役に立たないものはない。なぜか。世の中の価値観にあった役に立つものなど、政府や企業ででもできるからである。

諸外国において、なぜ大学が最高学府なのか。なぜ大学の自治が認められて、高い尊敬を受けるのか。それは、それまでの世の中の価値観が通用しなくなったとき、政府や企業のような実社会の人々がどうして良いかわからなくなったときに、答えるのが大学だからである。だからこそ、どこの国でも最高の人材が大学に残るのである。そして時流に流されずに、真理の探究を行うのである。

翻って我が国はどうか。今、これだけ社会が混沌として先行きが不透明なのにもかかわらず、何か出来ているであろうか。断じて否である。むしろ大学は大学としての本来の使命から逆の方向に向かっている。何かの陰謀を疑いたくなるほど滑稽に。

アメリカ合衆国という国がある。潤沢な富に物を言わせて世界中から人材を集め、世界一と称する研究を行っている。ノーベル賞の受賞者数など群を抜いた第一位である。徹底した実学志向である。それでも博士号は「Dr. of Philosophy」すなわち「哲学博士」である。医学であれ、工学であれ、すべて哲学の一手段なのである。少なくとも、その建前は崩していない。

もはや日本の大学は、大学ではない。だからこの砦で伝えていきたいのである。